法隆寺管長・大野玄妙氏は、「法隆寺は聖徳太子と共にある」と語ります。金堂の釈迦像や夢殿の観音像は太子をモデルにしているなど、知れば知るほど太子が建てたという意味以上に、法隆寺と太子は深いつながりがあるのです。寺にある宝物は誰かが太子に寄進したもので、すなわちすべて太子のもの。だから「ボロボロになっても捨てられない」と、まさに自身が法隆寺、太子と共にあり続けてきた大野氏。法隆寺にまつわる意外なエピソード、太子に関するいくつかの謎について語ってくださいました。
●「夢殿開扉」はフェノロサの捏造だった
法隆寺の東院伽藍に位置する夢殿には、聖徳太子をモデルにしたといわれる秘仏・救世観音像が安置されてい...
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法隆寺管長・大野玄妙氏は、「法隆寺は聖徳太子と共にある」と語ります。金堂の釈迦像や夢殿の観音像は太子をモデルにしているなど、知れば知るほど太子が建てたという意味以上に、法隆寺と太子は深いつながりがあるのです。寺にある宝物は誰かが太子に寄進したもので、すなわちすべて太子のもの。だから「ボロボロになっても捨てられない」と、まさに自身が法隆寺、太子と共にあり続けてきた大野氏。法隆寺にまつわる意外なエピソード、太子に関するいくつかの謎について語ってくださいました。
●「夢殿開扉」はフェノロサの捏造だった
法隆寺の東院伽藍に位置する夢殿には、聖徳太子をモデルにしたといわれる秘仏・救世観音像が安置されています。この長年白布に包まれていた秘仏を、岡倉天心とともに、東洋美術史家のアーネスト・フェノロサが開扉、発見したと広く伝えられています。フェノロサは1878(明治11)年に来日以来、日本美術に深い関心を寄せ、それを高く評価してきた人物ですが、彼が夢殿を開いたというのは捏造である、大野氏は言います。
実際に、夢殿は国がそれ以前に宝物調査を行った際に開かれているため、そうした話が伝わったのは、聖徳太子の魂が宿っているかのような法隆寺、夢殿のたたずまいにフェノロサが感激したあまりのことだったようです。
●女性上位説で紐解く「なぜ太子は天皇にならなかったのか」
この意外なエピソードに続いて、大野氏は聖徳太子に関するいくつかの謎に迫ります。その第一は、なぜ聖徳太子は皇太子でありながら天皇にならなかったのかということです。いくつかある説のなかでも興味深いのは、古代から平安時代までは女性上位の時代であり、女性天皇が治めた方が世の中の流れをソフトに扱うことができたからではないかというものです。
当時は男性が女性のもとに通う「通い婚」が一般的であり、また女性の親元の血筋というものが非常に重視されていました。藤原道長も、娘の入内なくして摂関政治で権勢を誇ることはできなかったわけですから、平安中期までは女性の影響力は相当なものがあったということでしょう。
当時は、日本のみならず、中国、朝鮮半島でも女性が政権を持つことが一種、時代の流れであったとか。韓流ドラマで一気に知名度の上がった善徳女王、真徳女王、そして中国史上唯一の女性皇帝である則天武后。いずれも7世紀前半~中頃の治世で、日本の女帝・皇極天皇(後に斉明天皇として再び即位)時代と並行しています。
●実は聖徳太子は天皇だった!?という仮説
一転、実は聖徳太子は天皇だったという説もあるそうで、謎はさらに深まります。聖徳太子が天皇だったという根拠として、太子の姉とされる酢香手姫皇女(すかてひめのみこ)の行動について、大野氏はこう言及します。酢香手姫皇女は伊勢神宮の斎宮だったのですが、太子の崩御後に一度帰ってきているというのです。伊勢神宮が祀っているのは天照大神であるため、基本的には男性が天皇であった場合には斎宮を立て、女性が天皇であった場合には斎宮を立てないという習わしになっていました。
だから、聖徳太子が亡くなったことで伊勢の斎宮が一度引き下がるということは、それまで太子が天皇であったからではないか、という仮説が成り立つわけですが、もちろんこれはあくまでも仮説。大野氏もこの謎に答えを出してはいません。
一万円札に描かれていた肖像画も、実は聖徳太子とは違う人物であるという説があったり、21世紀になってもなお、その周辺には多くの謎が残されています。謎が多い分、太子の偉大さも計り知れないものがあるといえるのかもしれません。
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